1982年に名古屋駅で寝台特急「紀伊」号の機関車交換のさいに、DD51が14系寝台車に激突した事故がおきました。Wikiの記事参考。
前にも一部の画像を貼った事ありますが、CD化画像に全部の画像がありました。
今回、改めて紹介したいと思います。
ただし、事故画像です。グロ画像と批判されるかもしれません。
あらかじめ記しておきますが、事故画像を見る・見せる事に批判的な方はここから先を見ずにスルーして下さい。お願いします。
事故の経緯は次のような形でした。
東京から紀伊勝浦に向かう「紀伊」号は「出雲」3号と名古屋駅まで併結運転され、深夜の名古屋駅で「出雲」3号を分離。ここから名古屋第一機関区のDD51に牽引される列車でした。
ところが、1982年3月15日深夜、名古屋第一機関区を出発したDD51-717は機関士が飲酒運転&居眠り運転をしたため、時速20km/h(そんなはずないけど)でスハネフ14-102に激突・大破させてしまいました。
不幸中の幸いだったのが、列車が比較的空いていたため、激突部分には乗客がおらず、けが人14人だけで済んだ事でした。
この事故で国鉄批判のボルテージは高まり、2年後の西明石駅「富士」号脱線事故(同じく機関士飲酒運転事故)も批判をさらに高め、国鉄分割民営化への流れを加速させるものになったようです。
私はこの事故を朝のニュース?で知って見に行ったようです。
名古屋駅には昼頃に着いたと記憶しています。「もう事故現場は片付いてるかな~」との思いに反し、現場は一部の車体が切断されているだけで、復旧作業はまだまだといったかんじでした。また、稲沢区に配置されていた操重車ソ80が現場に到着し復旧作業を行っていました。操重車なんて車両は救援車と同じく普段は区の隅っこで昼寝している姿しか見ない車両で、それが仕事をしているのだから驚きでした。
DD51-717はスハネフ14-102の車掌室・客室に数メートルに渡って食い込んでいました。この時間帯にはスハネフ14の車体の一部が切り取られています。
客車への機関車連結ですから、誘導係員が客車のそばにいたはず・・・。そこへこんな速度のDD51が突っ込んできたら、さぞや驚かれた事でしょう・・・。20km/hって事はあり得ないと思います。
スハネフ14-102からは発電用エンジンも脱落していました。
割れた窓部分にベッドが見えます。その左の窓も客席を思われます。このあたりに乗客が寝ていたら、大変な惨事になっていたでしょう。分電盤等が丸見えですが、この部分は早い時間帯に車体が切除されています。
雨の中の復旧作業。食い込んでいる部分を少しずつバーナーで切断していました。
スハネフ14-102の前側台車はこんなところまで外れて飛んでいました。
ちなみに「スハネフ14-100番台」は24系24型のオハネフ24に発電機等を取り付け14系化改造した車両で3両ありました。1977年に改造されていますので、このスハネフ14-102は僅か5年の寿命だったようです・・・。
1982年3月15日撮影。もう一回書きます。
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